あの人この音

あの人この音:キース・ジャレット(Keith Jarrette)

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ザ・ケルン・コンサート

ジャズが好きな人で彼を知らぬ人はいないだろうし、もし知らないとなれば残念ながらジャズの魅力の大きな柱を聴き逃していることになります。。何故なら、60年代から90年代にかけて常にジャズのエポックメイキングなシーンに登場して様々な演奏スタイルを確立してきたからです。ジャズ・プレーヤーというよりやはり1人の真のアーティストだと思います。

彼はアメリカのペンシルベニア州出身ですが、8歳の頃にはプロのピアニストとして自作の曲をコンサートで演奏したわけですから、所謂神童だったわけですね。元々はクラシックの勉強をしていたわけですが、高校時代からジャズに傾倒するようになったそうです。

では年代別に彼の活動を振り返ってみることにしましょう!

◾️60年代
1965年にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーに入るわけですが、すぐにチャールス・ロイドのカルテットに参加します。ロイドのアルバム『フォレスト・フラワー』は60年代後期のジャズの傑作ですが、ここでのキースの演奏はストレイト・アヘッドなジャズの演奏で、後の彼のジャズ演奏に大きな影響を与えているように私は感じます。ロイドの演奏も素晴らしいのですが、キースのイマジネーションあふれる演奏は飛び抜けています。

そして1967年には後のポール・モチアン、チャーリー・ヘイデンの2人とトリオで初リーダー作『人生の二つの扉』を出すわけです。

◾️70年代
マイルス・デイヴィス・バンド加入時期
1970年、マイルス・デイヴィスのバンドに参加します。当時のマイルスは『ビッチェズ・ブリュー』のようなエレクトリック・サウンドを追求していて、キースはなんとキーボーディストとしての登用だったわけです。本人からすればマジっすか?ってとこですね。なんせオルガンを主に担当し、先に入団していたチック・コリアとのツイン・キーボードしていたのです。その後チックが退団し、キースはエレクトリック・ピアノを担当。ジャック・ディジョネットとともにキレキレに燃え上がっていたわけです。ライブ盤『アット・フィルモア』『ライヴ・イヴル』、スタジオ盤『ゲット・アップ・ウィズ・イット』『ディレクションズ』の時期ですが、私はこの時期の演奏、マイルスもすごいのですが、キースもすごいと思うのですね。。マイルスの音にカウンターパンチで音が入り込むんですよね。。

でマイルス・グループには1971年の終わり頃まで在籍していました。

そしてこの時期のヨーロッパ・ツアー中に運命の出会いをするわけです。当時ドイツ・ミュンヘンの新興レーベルだったECMのオーナー、マンフレート・アイヒャーと出会うわけです。これが彼の一大転機となるんですね。そうなんですソロ・パフォーマンスを始めるわけです。『フェイシング・ユー』がそのスタートで、ここではあらかじめジャレットが作曲した曲がスタジオで演奏しています。
1972年頃から準備なしの完全即興ピアノ・ソロ・コンサートを行うようになるわけですね。1973年にはブレーメン・ローザンヌで実際に行われたコンサートをそのまま収録したLPレコード3枚組の大作『ソロ・コンサート』を出して評論家たちの度肝を抜いたわけですが、その後運命の大傑作『ザ・ケルン・コンサート』を発表するわけです。このアルバムを買って友人の家で一緒に聞いたのですが、その友人が聞いた後ですぐにレコード屋に走ったことを今でも覚えています。それだけ衝撃的なソロ即興演奏だったのです。これが即興なのでしょうか?神がかりとは正にこのことで、キースの手に、キースの弾くピアノに神が舞い降りた・・ってな感じでありました。。

最初の2分ほどで大気圏に突入し、その後10分ほど宇宙への旅をするのであります。。
この演奏は当時TRIOという音響機器のCMに使われましたし、ジャズとしてはとんでもないセールスを記録していると思います。

70年代はピアノ・ソロの活動と並行して2つのバンドを率いていました。所謂キースの絶頂期ですね。1971年には以前から活動していたチャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンとサックスのデューイ・レッドマンを加えた通称「アメリカン・カルテット」を結成しています。カルテットの音楽はレッドマンがいたことでフリージャズの要素があったし、ゲストのパーカッショニストのギレルメ・フランコやアイアート・モレイラらが入って、独特な民族音楽要素も見られました。77年のThe Survivors’ Suiteは1曲27分、21分ある組曲で、彼らの全ての良さが十分に味わえる大傑作です。

もう一つのバンドである通称「ヨーロピアン・カルテット」は、パレ・ダニエルソン、ヨン・クリステンセン、そしてサックスのヤン・ガルバレクという3人の北欧出身ミュージシャンを擁するカルテットであったわけですが、特にヤン・ガルバレクのプレイは無色透明というか琵琶湖摩周湖屈斜路湖ってな吸い込まれてしまうようなサックスプレイで、唯一無二の存在感がありました。未だにああいうプレイができる人はいないと思います。「My Song」という牧歌的なアルバムがありますが、未だに愛聴盤であります😄

◾️80年代
1983年になってこの3人のメンバーがマンフレート・アイヒャーによって集められ、『スタンダーズVol.1』『スタンダーズVol.2』『チェンジス』の3つのアルバムを発表したわけです。これまで各々が先端を行く活動を続けてきたわけですが、正反対でも言うべき、伝統的なスタイル&オーソドックスなスタンダード曲によるジャズを演奏し発表したわけです。これにはジャズ界もファンも驚き桃の木だったわけです。ありえんでしょ・・・普通。

通称「スタンダーズ・トリオ」って言われていますが、キースはトリオ・ジャズって言って欲しいって語っています。
で80年代以降のキースの核となる活動になったわけで、2000年代に入った現在まで25年以上、継続してライブを行い作品を発表し続けるジャズ史上でも最強のユニットとなったわけです。

80年代後半から90年代にかけては、本格的なクラシック音楽のレコーディング活動を行っていて、ジャレットは1987年のJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集第1巻』をはじめ、ヘンデル、モーツァルトなどの作品を取り上げています

◾️90年代
90年代後半、彼は慢性疲労症候群となり、一時期はピアノも弾けず、人と会話する体力さえ無く、暗い闘病生活を送ったわけです。1998年に入ってやっとピアノが弾けるようになるまでになり、ようやく復活の兆しが見えた頃に自宅のスタジオにて録音されたのがピアノ・ソロ作品『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』です。
これは闘病を支えてくれた奥様のために作ったそうです。泣けますね・・・😭

◾️2000年代以降

2017年2月にニューヨークのカーネギー・ホールで行われたソロコンサートを最後に活動を休止して再び療養生活に入りました。2018年には脳卒中を2回発症し左半身が部分的に麻痺していて、そのためピアノ演奏に復帰できる可能性が低いという話が流れました。

とっても悲しいですけど、彼はジャズ界にこれだけ多くの貢献をしジャズファンを沢山沢山喜ばせ、そしてファンを愛してきたのです。今まで本当にありがとう!キース・ジャレット!
どうぞゆっくりと奥様と余生を楽しんでください。

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